おらしょとぐるりよざとわたくし

私は小学校でマーチングバンド→中学でブラスという流れで音楽を始めたので言ってみれば最初のうちは(広い意味での)現代音楽にしか触れていないのだが、はっきりと「現代」を意識したのは高校に入って1年目に取り組んだこの曲からだった。



 吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」伊藤康英(1990)

  1.祈り (Oratio)

  2.唄 (Cantus)

  3.祭り (Dies Festus)

隠れキリシタンたちが歌い継いでいった聖歌は、厳しい禁教の中で、旋律は次第に歪曲し、歌詞も転訛してしまった。たとえば「グロリオーザ(Gloriosa)」というラテン語は「ぐるりよざ」というように…。』

(作曲者自身による解説:スコアより抜粋)
今でこそ「吹奏楽における邦人オリジナルの代表作」なんて持ち上げられることすらあるこの大曲だが、その年の2月に初演(海上自衛隊佐世保音楽隊)が終わったばかりだったから当然私は聴いたことも見たこともなく、「祈り」の楽譜にアタマから目を通していった私は10小節目のところで大きくのけぞった。だって歌詞が書いてあるんだもん、トランペットのパート譜に!



  O gloriosa Domina excelsa super sidera, qui te creavit provide lactasti
sacro ubere.




旋律をリードするトロンボーンを除いたバンド全員がグレゴリオ聖歌をユニゾンで厳かに「うたう」。私も歌いましたよ、ラッパひざに抱えてね。



それまでバーンズとかリードといったありがちな洋物オリジナル作品やバレエ音楽しかやったことのなかった私は「こんなんありか〜い」と思った。しかも、(今考えればここが良くなかったのだが)思っただけに終わらせてしまった。その夏この曲を4回ほど演奏したけれども、4回とも冒頭の歌が終わったところで客席がざわめいたもの。齢十五の少年の心に「現代曲=ギミック」の単純な構図が焼き付いてしまったのも無理からぬことかと。



その後「ぐるりよざ」を超える良曲には出会えないまま、実り少ない高校生活を終えた私は大学時代に前衛華やかなりし合唱音楽にハマり、現在に至るのでした。





しかし今ならちょっとは分かる。この「忘れられた」グレゴリオ聖歌が異郷の地で織り成すバリエーションと、それを題材としてカクレキリシタンの壮絶なドラマとを描こうとする時、その最初の動機は「うた」そのものであることが必然だったのであろうと。



そして「旋律の歪曲」という現象が「主題の変容」を連想させることが、作曲家の作曲魂を刺激せずにはいられないであろうことを。事実、「ぐるりよざ」以前にもグレゴリオ聖歌を題材とした吹奏楽曲はいくつも存在した。ちなみに伊藤先生はそれらを評して「聖歌の使い方がおかしい」と言っておられたとか、いないとか。(こんなん書いていーんだろうか)





...千原英喜「おらしょ」を歌うたびに、上記のような自分史が頭の中に巡るのでした。