「よい人材」とボールかごのメタファー

昔から「よい人材」と言われてきたような人は、ソフトテニスのボールにたとえることができると思う。姿まんまる。触るとやわらかい。コートに落とせばよく弾むし、打っても投げても遠くまでよく飛んでいく。かつての日本人をふつーにすなおに育てればそのようにたくさん育ったから、企業はそれを刈り取ってある意味画一的に育成活用してきたわけ。こうした状況において「よい人材」への需要及び供給の質・量はだいたい一致してきた。
いっぽう今日において、この国のボールかごに入っているボールの種類は以前より増えてきた。がちがちの黒い砲丸や、遠くに投げるのはしんどいちょっと大きめドッジボール、蹴ればまっすぐ飛んでいくが転がすとどこにいくか分からないラグビーボール、あるいは、誰も見たことのない異国のスポーツ専用のボールだって入っているかも。その中で昔ながらの素直でかわいいソフトテニスのボールは、相対的には、減っているだろう。それを見て「使える奴が少なくなった」と評価するのは果たしてどうか。
「ウチはあくまで軟庭球で」って言うのならそれもいい。ただ、ビジネスがこれだけ複雑化する中で、ラグビーボールにしか到達できないゴールとか、砲丸の破壊力が必要な場面とか、ボールの種類に負けないくらいそのフィールドも多様になってきているのだと思う。であれば、応用が効きどこにアプライしてもそこそこの結果を残せそうな人材をとにかくたくさん確保するより、一点突破型の人材を各種取り揃えて本当の意味での「適材適所」を実現した企業が、実は強いのでは。
って言うか、昔ながらの「ボールかごからバケツ一杯」てな採用手法を使っていては、ソフトテニスのボールばっかりは確保できないって。ある程度「確保できる資源で最大の効果を」ってやつを人材面でも実践していかないと。
だってそのための人物本位採用、実力主義人事、成果主義処遇なんでしょ?