「共感できる」ことの大切さ
「ドンキーコング」からそろそろ30年。宮本茂さんが自らのゲーム哲学を次々と言語化している。岩田社長というこれ以上ない聞き手の存在も大きいが。
以下、社長が訊く『スーパーマリオギャラクシー2』 いちばん大事なことは“共感のものづくり”より引用。
宮本
・・・それ以外にも「マリオはしゃべってもいいんでしょうか?」
「いや、マリオはプレイヤーなので、しゃべったらアカンよね」
とか議論になるんです。
ところが、「マンマミーヤ」とか言うてるわけでしょう。
「おいおい、しゃべってるやないか」って(笑)。
岩田
(笑)
宮本
でも、それはそれで悪くないんです。
だから、「子どもっぽい」とか「大人っぽい」とか
「しゃべるべき」とか「しゃべるべきじゃない」とか、
そういったところに・・・。
岩田
そこには本質はないということですね。
宮本
そうなんです。そこに本質がないというところに、
小泉さんと話すことでやっと気がついたんです。
遊んでいる自分が、その世界に“共感”できるかどうか、
それがいちばん大事なことだということで、説明がついたんです。
たとえば超大作の映画を観ていると、その映像の豪華さに
スゴイ!と思いながらも、ちょっと引いてしまうようなことがありますよね。
岩田
“共感”できないから、ですよね。
宮本
ええ。“共感”できないからその世界に入り込めないんです。
音楽の場合なら、演者が聴衆を“共感”させようとしそれが成功するかどうかがその場の幸福度に繋がってくる。曲の難易度とか、時代と様式との関係及びその表現とか、歌詞に入り込むとか、それら自体にそれほど重要な意味がある訳ではない。演者の側には「何を表現したいか」のかなり高次での理解(演者が複数なら「共有」)が必要で、かつ聴衆の側に「何を聴きたいか」の期待、乃至は表現されているものに対する感受性(「聴く耳」を持つこと)がないと“共感”が発生しない、ということでは。